「こんな所で何をしているんですか?聞仲殿」
その声に気付いた聞仲が後ろを振り向くと、見知った顔がそこにあった。
「…太公望か、一体どうかしたのか?」
「いえ、貴方が何処かへ出掛ける所を見かけたので。あまり一人で出歩かないで下さい、
ただでさえ今は夜で蛮獣がうろついてるかもしれないというのに…」
「…すまぬ、心配をかけたな」
「いいんですよ、それよりも…」
そこで太公望がいったん言葉を区切り、
「綺麗な湖ですね」
「ああ…」
この湖は昼間、子牙が見つけた場所だった。
水がどこまでも澄んでいて、とても美しかった。
「夜の湖というのも、いいものですね。別の顔が見えます」
「別の顔、か…」
その言葉を聞いて、聞仲はある男を思い出した。
数ヶ月前、武王を殺した男。
太公望を憎み、周の町を破壊し、黄飛虎を殺そうとした男。
血のように紅いその瞳に、あらん限りの深い憎しみを宿す男。
…聞仲、もう一人の自分。たとえ彼が九竜派の創りだした怨念の塊だったとしても、
それが己であることに変わりは無く。
あの男が自分のもう一つの顔だというのならば、
あの惨劇は自分がしたことになるのではないのか?
「自分」を殺したあの日から、聞仲はそんな事ばかり考えていた。
「…聞仲殿、どうかなさったのですか?」
太公望の呼びかけで、聞仲は我に帰った。
気がつけば自分はその場にうずくまっていたのだ。
隣で心配そうに見つめる太公望の顔。
その気遣いや優しさは今の聞仲にとって苦しいものでしかなかった。
「…太公望、私はここにいてもいいのだろうか…」
「え…?」
思わぬ言葉に太公望は絶句する。
「随分前から考えていた、私は何故ここにいるのだろうと…。
すでに死を迎えた自分が今生きているのはあまりにも不自然だ…」
「それは九竜派がっ…!」
「たとえそうだったとしても最初に気付くべきだった。私が…、元来死者である私の
存在がこの世界の平和を乱してしまったとしたら…!!」
「聞仲殿っ!!」
思わず太公望は聞仲の体を抱きしめていた。
「それ以上…、ご自分を責めないで下さいっ…!」
「どうしてお前たちは私を責めないんだ…?」
この世界にあるべきではない、「異形」の自分を…、
何故「仲間」として受け入れてくれるんだ…?
その言葉を聞いて、太公望は聞仲の顔をまっすぐに見た。
彼の瞳はどこまでも優しく、しかし悲しみすら写した蒼だった。
「…貴方に生きてほしいからです、聞仲殿」
本心だった。かつて彼を救うどころか、あまつさえ自殺にまで追い込み、
その魂すら妲己の妖術によって邪悪な操り人形として、蘇らせてしまった罪。
それは一生消えぬ傷として、太公望の心に深く刻み込まれた。
「聞仲殿、力になれるかどうか解かりませんけど…、僕が傍にいます。
貴方の苦しみを少しでも救いたいから」
太公望の顔は、どこが頼りなさげでもあり、不思議と安心できる顔でもあった。
「…ありがとう、太公望」
そう言った聞仲の顔は儚げではあったが、確かにほほえんでいた。
先に仲間の所へ帰った聞仲の背中を見送った後、
太公望は目の前の湖を再び見つめた。
「聞仲殿…、貴方が思っているほど、僕は優しい人間ではありません…」
三年前、貴方を救うことが出来なかったから――。
自分の罪から逃れる為の『偽善だ』と罵られてもいい。
彼に生きてほしいと願ったのは紛れもなく真実。
「…絶対に、死なせやしない……!」
それが太公望に出来る、唯一の誓いだった。
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