兄様! 瓊霄、もう泣かないよ!
その日は、とても酷い雨だった。
梅雨の雨は冷たい。昨日の晴天がまるで嘘の様だった。
近くの川もかなり増水している。
「どこへも行けないわね。これでは。」
「今日はここでおとなしくしときましょ。」
「うん・・・」
二人の姉達も、雨のせいで浮かない顔をしているが、
末妹の瓊霄はさらに輪を書いて元気がない。
・・・雨のせいだけじゃない・・・私がつらいのは・・・
「おい瓊霄!どうした!元気ねえじゃねえか。」
長男の公明が声をかける。しかし相変わらず浮かない顔で首を振る。
「・・・・・なんでもないよ、兄様・・・」
「何でもないわけねえだろ!一体どうしたんだ。お前らしくもない。」
「ほんとに、何でもないってば。」
「無理すんじゃねえよ。何かあるなら俺に言ってみろ。」
兄の手が肩に置かれた。しかし顔を背けた。
兄の顔をまともに見れなかった。見るのが辛かった。
その口がわずかに動いたのが、彼に見えたかどうか・・・
・・・ワタシノセイデ、カアサマハシンダ・・・・
事の発端は前の日、以前から気になっていた事を公明に尋ねてた事だった。
「兄様兄様!」
「何だ瓊霄。」
「私達の父様は、戦争で兵士に駆り立てられて死んだって言ってたよね!」
「・・・ああ。」
少し間を置いて力なく答えた兄の様子が少し気になったが構わず質問を続けた。
「じゃあ、母様は?母様はまだ生きてるの?」
「!!」
彼の顔がこわばった。悪い事でも聞いただろうか。
何かいけないことを聞いてしまったような気がして悪びれる。
でも少しすると、兄はいつもの笑顔で話してくれた。
「おふくろは、お前が生まれてすぐ遠くへ行っちまってな。
もう戻ってこれねえけど、ずっと見守ってくれてるぜ。」
母様が、私達をずっと、見ててくれてる・・・!
「やった!母様は、どこかで生きてるんだね!
私達を、今こうしてる間もずっと、ずっと見ててくれてるんだね!?」
「ああ、そうだ。」
「よかった〜・・・父様も母様も死んでたら、私どうしようかと思った・・・」
本当によかった。父様が死んでしまっていても、母様がまだ生きていてくれるなら、
いつか会えるよね。
いつの日か、私が一人前になったら、
母様を探しに行こう。そして、こう言おう。
「ありがとう」って・・・
しかしその日の夜。
二人の姉達と寝る準備をしながら話に花が咲いていたときだった。
突如瓊霄が母の話題を出す。
「雲霄姉様、碧霄姉様!私達の母様って、どんな人だったの?」
その言葉を聞いた途端、二人の動作が止まった。
今まで和やかだったその表情に陰りが見える。
幼い瓊霄にもそれぐらいの表情の変化は十分わかる。
―――やっぱり、何か変だ。昼間の兄様と言い、今の姉様達と言い・・・―――
耐えられなくなった瓊霄が思いきって姉達に聞いた。
「ねえ、母様に何かあったの!?」
「い、いいえ。そんな事はないわよ瓊霄。」
「嘘よ!だって昼間兄様に母様の事を聞いたときも何か白々しかったもん!
姉様達、何を隠してるの!?」
「お母様は今、遠いところにいると、お兄様から聞いたはずですよ。」
「どうして?何であたしが生まれてすぐ遠いところに行っちゃったの!?
母様は瓊霄が嫌いだったの!?」
「そんなことない!!!」
すぐ上の姉、碧霄が突然大声で否定した。
その碧い瞳は、真っ直ぐに妹を見据えている。
初めは引け腰だっただけに、あまりの違いに瓊霄がおじけづく。
「あなたの・・・私達のお母様は遠いところへなんか行きたくなかったのよ!
行きたくなかったけれど・・・あなたを生んですぐ死・・・」
「碧霄!!」
感情が勝り涙するあまり、自身の抑制が効かなくなって口が滑りかけた。
完全にその言葉が吐かれる前に雲霄が制したものの・・・
「母様は・・・死んだ・・・?私を生んで、すぐ?」
すでに瓊霄の耳に達していたその言葉を取り消す事は、もう不可能だった。
その言葉は瓊霄の脳裏に深く深く焼き付いてしまった。
私を生んだから、私が生まれたから、私を生んだせいで・・・
―――――ワタシノセイデ、カアサマハシンダ・・・・・・――――
その夜は、眠れなかった。
そして翌日になってもそのショックが消える事はなかった。
一度焼き付いた言葉は、簡単には消えない。
――自分が生まれなければ、母様は生きていたかもしれない。助かったかもしれない・・・
瓊霄の目には今、何も映っていない。ただ暗闇のみが広がる、何もない世界。
その体はもはや魂のない抜け殻同然だった。
気がつくと、兄に呼ばれていた。
「…う、…霄、おい瓊霄!聞こえてんのか!?」
「・・・あ、はい、兄様。」
「師匠の所へ行くぞ!お前も来い!!」
「はい・・・」
この時瓊霄が考えていた事を、誰が知ることができただろう。
*
兄が師匠である通天教主と謁見していて、今は二人の姉とともにいた。
今の瓊霄の状況を作り出してしまった二人、とりわけ碧霄は何を言う事もできず
沈黙が続いていた。
魂のない声が、広い部屋にこだまする。
「姉様、この碧遊宮に確か橋あったよね・・・」
「橋?ええ。確か・・・ここから少し離れた所にある中庭の近くに川が流れてるから、
多分そこにあったと思うわ。どうして?」
「・・・・・・行ってきてもいい?」
「だめです!お兄様が帰られるまで、ここにいる約束でしょう!」
「・・・すぐ、戻るから・・・ほんのちょっとだけ
前にその橋に行った時、ちょっと落とし物しちゃって・・・」
もちろん、嘘である。しかし現に三姉妹の修行場は中庭の近くである。
落し物をしても、不思議はない。
「そう・・・じゃあ、すぐ戻ってらっしゃい。」
「・・・はい・・・・」
本宮を出た瓊霄は、今出てきた扉に向かって一礼した。
姉様、兄様、今までありがとう・・・・・
瓊霄は、母様に償いをしなきゃいけないんです。
今まで、いっぱいいっぱい迷惑かけて、本当にごめんなさい・・・
そして振り向かずに、中庭の方へ走って行った・・・
*
「おいお前ら!瓊霄はどこ行ったんだ!!」
謁見が終わって大広間に帰って来た兄の目には三人残して来たはずの妹達のうち
二人しかいなかった。それも、いないのは一番かわいい末妹。
「け・・・瓊霄は・・・」
あの時行かせなければよかった!
雲霄にはそのことが悔やまれてならない。
碧霄はますます言葉を失ってしまった。この雨の中を中庭へ行ったなど、どうして言えようか。
「答えろ!!瓊霄はどこへ行きやがった!?」
たまらなくなって碧霄が泣きながらくず折れる。
「申し訳ありませんお兄様!!瓊霄は・・・瓊霄は中庭へ・・・!」
「何でったって中庭なんざに行かなきゃならねえんだ!こっから結構離れてるし、
第一この雨の中、何しに行く必要があるんだよ!!」
「中庭で、多分この前修行していた時でしょう、落し物を拾いに・・・」
途中まで言って言葉を失った。
あの子が最初聞いていたのは、「橋のある場所」。
そして私は「川が流れている」と言った。
あの子は昨日私からお母様が既に死んだと聞いて傷ついている・・・!!
落し物なんて、嘘よ!!あの子は・・・・!!
自分が言うよりも早く雲霄がひどく焦って兄に言った。
「お兄様!!早く中庭に行って下さい!!でないとあの子は、あの子は・・・!!」
「お願いです!早く行ってくださいお兄様!!!」
「一体何があったんだ!!」
「話している時間はありません!早く瓊霄を!!」
時は一刻を争う。もうためらっている時間などないのだ。
最悪の場合、取り返しのつかない事になってしまう。
妹達の気持ちが伝わったのか、公明はそれ以上問い詰めるのをやめた。
「場所は!」
「中庭です!中庭の、一番大きな赤い柱の橋です!!」
「わかった!行ってくる!!」
疾風の如く、趙公明は本宮を後にし、中庭に向かった、
*
「あった・・・碧霄姉様の言っていた橋・・・」
瓊霄は中庭で一番大きな、赤い柱の橋の側に来ていた。
確かに、下には大きな川が流れている。
それも、この豪雨で増水し流れもすこぶる速い。
呑み込まれたら、まず助からないだろう。
橋の欄干に近づいていく。
―――思えば、今までいろんなことがあったなぁ・・・
一族を追い出されて、荒れ野を彷徨って、仙界入りして・・・
それから、それから・・・
思い出しながら川を背に、橋の柵に腰をかける。
―――あれ?変だなぁ。何でいつもみんな一緒なんだろう。
どうしていつも兄様がいるんだろう・・・
気がつくと、目が熱くなっていた。やがてそれは涙となって頬を伝った。
―――おかしいなぁ、何で泣いてんの?あたし。
これから、やっと母様と父様に会えるのに・・・
嬉しいはずなのに・・・これでいいはずなのに・・・なのに・・・
とてもいけない事をしている気がして・・・
涙は後を絶たない。思い出の数だけ、溢れてくる。
あの時も、あの時も、あの時も・・・いつも・・・
「瓊霄ー!!!瓊霄ー!!!!どこにいるー!!!」
「!!!」
兄様だ!
見つかりたくなかったのに、一番見つかりたくなかったのに。
でも何で、何でこんなに嬉しいの?
瓊霄、あなたは何がしたいの?
涙がいっぱい溜まった目で兄の姿を探す。
「兄様・・・兄様ぁ・・・」
声がうまく出ない。雨も手伝って、全く聞こえていないだろう。
それでも気がつくと、出きる限りの大きい声で兄に呼びかけていた。
「兄様!兄様!!あたし・・・あたしここにいるよ!!!!」
瓊霄の気持ちをあざ笑うかのように、雨は容赦なく打ちつけてくる。
多分、聞こえていなかったに違いない。
しかし、不意に公明がこちらを向いた。
今呼べば、絶対に聞こえる!!
「兄様・・・」
大きく叫ぶがはずが、雨でぬれていた手すりに手をすべらせ、バランスを崩してしまった。
・・・川に落ちる・・・!
「兄様ァーーーー!!!」
声は兄に届いた。
「瓊霄ーー!!!」
さすがに間に合わず、瓊霄は激流の川の中へ呑み込まれて行った。
流されながらも、必死で兄を求めた。
「にい・・・さ・・・ま・・・に・・・・・さ・・・」
そこから先の記憶は、ない。
ただ、最後までこう思っていたのは覚えている。
死にたくない。
*
意識が覚めた時、とても苦しくて思わず咳き込んだ。
雨に打たれ、川に流され、肌に触れる自分の髪や衣服がとても冷たかった。
でも、暖かい・・・・私は生きている?
恐る恐る目を開けると、初めはぼやけていた像が次第に形を成してくる。
「兄・・・様・・・?」
「瓊霄!」
水が滴り落ちている。
よく見ると、ところどころ水草も絡まりついている。
溺れた自分を、助けてくれたに違いない。
「兄様、あたし・・・」
「っのバカ野郎が!」
突如罵声を浴びせられ、兄に怒られたのかと思った。
無理もない。勝手に留守中に抜け出して、この様なのだから。
「ごめんなさい!あたし・・・あたし怖くて・・・」
すっかり冷えてしまった妹の体を包み込む様にして抱きしめる。
「あんまり兄ちゃんに心配かけさせんじゃねえよこの野郎が・・・」
腕に力がこもる。
「こんなに冷たくなっちまって・・・死ぬ気かよお前!」
「・・・ったんだ・・・」
「ん?」
こんなにも優しい力で包まれてしまったら、もう自分が間違ってたとしか思えない。
バカだ、あたし。何であんなにも簡単に死のうと思ったんだろう。
「死ぬ気だったんだ、あたし。」
「何でだよ!何でお前が死ななきゃならねえ!?誰かになんか言われたのか!?」
「昨日ね・・・母様は私を生むとすぐに死んだって・・・教えられたんだ。
あたし、何だか生きてちゃいけないような気がして・・・」
「誰がそんな事言ったんだ!!俺達のおふくろは、ちゃんと・・・」
「もう、嘘付かなくていいよ、兄様。姉様に聞いたんだもん。
あたしを生んだ後すぐ死んだって・・・
あたしが生まれたせいで、母様は・・・・」
消えかけた罪悪感が甦る。
「あたしさえ生まれなければ、母様は死なずに済んだんだ!!」
「バカ言うんじゃねえ!!!」
兄の体が離れる。
妹の肩にしっかりと手を置き、向かい合った。
昨日1つ上の姉に見据えられたときよりも、
もっと説得力があって、頼もしい目。
小さい時からずっと憧れていた、深い茶色の瞳。
この目に見つめられると、いつも気分が落ち着いた。
この人といれば、何も怖い事はない。そう思うことができたから。
「そこまで知っちまったんじゃあ、今さら隠した所で何の意味もねえ。
・・・確かに、おふくろは死んじまったんだ。お前を生んで、すぐにな。
手伝いに来てたやつの話じゃ、お前は死産かもしれないとまで言われてたんだ。
おふくろの命が助かるにはそれしか道がなかった。
でもおふくろはこう言ったんだ。」
やはり私のせいで・・・と落胆していると、
その次に出た言葉は今までとは正反対の印象を瓊霄に与えた。
「『私は死んでも、この子だけはどうしても産みたいのです!お願いします・・・』」
母様・・・そこまでして・・・
「死ぬ直前にもこう言ってた。
『私はこの子が大きくなって、幸せに暮らしている所を見る事はできないけれど、
きっと明るくて、元気で、みんなから好かれる子に・・・』ってな。」
母様・・・!
また涙が出てきた。
自分が死ぬ事はもうわかってたのに、あたしを生んだら死んじゃうってわかってたのに、
それでも、死ぬ瞬間まであたしのこと・・・!
だから碧霄姉様はあんなにも否定したんだ。
なのにあたしと来たら・・・!
「ごめんなさい!ごめんなさい!!ごめんなさい兄様・・・・」
兄の胸にうずくまり、何度も何度も繰り返した。
皆の気持ちも知らずに、自分がしようとしていたことが、何とも愚かで、
もし本当に死んでしまったらどうなっていたか考えただけで、怖くて。
「過ぎちまった事だ。もういい。
お前は現に、こうして生きていてくれた。俺はそれだけで十分だ・・・」
「兄様・・・」
「泣くなら今のうちに泣いちまいな。これからはもう・・・自分を責めるな。
お前らが自分を責めないでいいように、俺がお前らを守ってやるから。
自分を責めて泣くな、いいな!」
兄の暖かい腕が、包み込んでくれている。
この人なら、信じてもいい。
兄の気持ちに応えるためにも、母の期待に応える為にも
これ以上泣いているのは良くない。
気持ちが落ち着くと、涙を拭いて兄の顔を見た。
元のはちきれそうな、真夏の太陽を思わせる飛びきりの笑顔で。
「兄様! 瓊霄、もう泣かないよ!」
遠くから、二人の姉達が近づいてくるのが見えた。
それでも、兄がその二人を責める事はなかった。
――やっぱり、私は兄様が一番だよ!
私にはもう父様もいなければ母様もいないけど・・・
兄様と姉様達さえいれば、瓊霄もう何も怖くないよ!
今をさかのぼる事、五年程前の梅雨の日の話・・・・
完
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